大学の部活動で書いた一編です。各自名言を引いて、その名言をテーマに物語を書くという企画でした。僕が引いたのは、『マブラブ オルタネイティブ』の「時間が一番残酷で優しい。(香月 夕呼)」というものです。この言葉から受けた印象と、続く言葉が「けど、その時間を優しくするのも残酷にするのも所詮は人間なのよね」だとわかったとき、上手くピースを嵌めることができました。
◇
キャンパスライフ
時間が一番残酷で優しい。(香月 夕呼)
「なあなあ、友さん」
大学食堂でうまくもまずくもないとんこつラーメンを食べながら、日本経済の未来を悲観していた大友勇に、何がそんなに嬉しいのか、田中が満面の笑みを浮かべて話しかけてきた。「人類学の授業取ってただろ? ほら、四限の、な?」
「取ってますけど……」取ってるもなにも、いつも隣で授業を受けているではないか、という言葉を飲み込み、大友はうなずく。「それがどうかしましたか?」
「本当に申し訳ないんだけど……」言葉とは裏腹に、全く悪びれていない、むしろこれからおとずれる大冒険に胸を躍らせる少年のような笑顔を浮かべて、田中は言った。「次の授業、代返頼むわ」
「なんでまた?」春に始まった大学生活も半年が過ぎ、これまで一度も授業を休んだことがなかったのに、どうしてまた突然に? 真面目さだけが俺らの取り柄だと熱く語っていたあなたはどこへ行ったんだ。
「ちょっと敦子とデートに行ってこようと思ってな」田中は照れくさそうに笑った。心なしか「デート」という言葉に力が入っている。そんな田中を食堂の店員が不思議そうに眺めながら、通り過ぎた。
なんでまた、そんな今さら? と大友は思った。田中と敦子は幼なじみで、ここまでずっと一緒だったという。デートぐらい何度も行っていることだろう。わざわざ気に入っている授業を休んでまで、デートに行く理由が、大友にはわからなかった。何か今日の四限にしか行われないイベントでもあるのか?
怪訝そうな顔をしているのかが引っかかったのか、田中は首をかしげている。その後、少し考えを巡らすようなそぶりを見せ、ああ、とうなずき、にやりと笑った。鷹のような鋭い目つきと、そのだらしない口元は実にアンバランスだ。
田中がこの表情をする時は、ろくでもないことを言う時だ、と大友が身構えると、「おれたち、大学生じゃねえか? な? 大学生ってのはさ、授業をサボって、遊びに行くもんだろ。ずっと先のことをよりも、目先の利益を優先するもんだ」
ほら、始まった。
「デートに、バイトに、サークルに、目の前のおもしれーことに飛びつくんだよ。その中で、一番手っ取り早かったのが、デートっていうだけの話さ」なにせ、俺には敦子がいるからな、と田中は、くっくっと実にうれしそうに笑う。
「楽しそうですね」目先の利益よりもずっと先の未来を想像して不安になるタイプの大友は、素直に言った。
「薔薇色のキャンパスライフなんだ。楽しいに決まってるだろうが」本当に楽しそうだ。なぜそれほどまでに人生を楽しめるのだろう? と大友はまじまじと田中の顔を見つめる。
「なんだよ、友さん。そんな目でじろじろ見るなよ。俺には敦子がいるんだからよ」俺にはそんな趣味なんかねえぞ、とぼそぼそ言っている田中の視線が、ふいに食堂の入り口の方へ向くのがわかった。大友も同じように視線を向ける。
敦子だ。
辺りを見渡し、田中を見つけると、一直線にやってくる。背筋をぴーんと伸ばし、きびきびと歩くその姿はほれぼれするほど美しかった。田中の前に立つと、開口一番、「総さん、さっさと行きましょうよ。デートなんでしょ?」
まっすぐな人だな、というのが、初めて会ったときに大友が感じた印象だった。その印象は、田中を通して、細々としたつきあいをしている今でも変わっていない。
「ああ、そうだな」悪いな、友さん、と手を挙げ、立ち上がる。「じゃあな、俺たちはもう行くからよ」
誰の目もはばからず、手を握りあう二人に驚き、少しばかりの羨望を込めて、大友は二人を見送った。田中の隣で、背筋をまっすぐに伸ばした敦子の後ろ姿は、やはり美しかった。
昨年九月にリーマン・ブラザーズが破綻して以来、不況の津波は広い海を隔てた日本まで包み込んだ。あれから一年たった今でも景気回復の目処は立たず、日本経済は暗雲に立ちこめている。やれ派遣切りだの、やれ正社員のリストラだの、毎日気が重くなるようなニュースを耳にし、毎日疲労困憊し、生気のない顔で通勤しているサラリーマンの姿を見かける。二年後には就職活動、三年後には卒業。まだ先のこととはいえ、自分の将来が不安になる……。
そのようなことを、言葉足らずながらも、大友はまくし立てた。誰かに、自分の不安を聞いてもらいたかったのだ。その相手が、なぜ田中なのかといえば、自分の周囲で一番人生経験が豊富そうだったためだろう。たまたま一緒に受けていた授業が休講になり、空いていた、ということもある。自分の周囲の誰よりも、これから先の未来を不安視せず、楽しそうに生きていたということも無関係ではない……はずだ。この男の元気の源泉を大友は知りたかった。
「百年に一度の不況とか、マスコミは言うけどな、ようはさ、百年前に一度不況で苦しんだけど、立ち直りましたってことなんだ。わかるか?」暗黒の木曜日、第二次世界大戦、敗戦、高度経済成長、学校でも習っただろ、と田中は続ける。「一度、人類は乗り切ってるんだよ、世界恐慌を。そりゃあ、そのときは今ほど世界規模じゃなかったかもしれねえけどな。だけどな、その歴史を踏まえず、不況だ不況だと不安がるのは、ちげーだろうが。結局今の不況は、気持ちの問題なんだよ」
「気持ち?」なんだそれは、と怪訝な顔をする大友。
「へー、気持ち?」愉快そうに笑う敦子。
「サブプライムローンだ、CDSだの言ってもよ、ようはありもしなかったお金で何かしようとしたことが間違いなんだよ。元々ありもしなかったお金なんだから、その虚構のお金が減っただけだ。それが、すぐさま実体経済に影響を与えるわけじゃない。それが何故ここまでの結果になったかといえば、ようは気持ちなんだよ気持ち」田中は勢いよくまくし立て、少し息を整える。「不況になるかもしれない、節約しなきゃ、お金が大事、周りが不況だと言っている、そういう人の気持ちが、金回りを悪くして、不況を招くんだよ。どっかでお金を払うのを渋るようになったら、そっから周りに感染するんだ。当然だよな、今までうまいことお金が回っていたのが、止まるんだ。そこからはもう悪循環だよ悪循環」
高説をたれて、満足そうな田中は真っ赤な顔でうなずく。
「それじゃあ、どうしたら景気が回復するんですか?」不況に対してそこまで自信満々に言うなら、その対策についても何か心得があるのではないか、と期待して、大友は尋ねる。
「知るかよ」俺は経済の専門家じゃねえんだ、そんなのわかるかよ、とつれない。その反応に、思いの外がっかりしていることに、大友は驚いた。「そうですか……」
「……」
「……」
「……」
「だけどな」沈黙に耐えられなくなったのか、はたまた言い過ぎたと反省したのか、田中はつぶやく。「死ぬ気でやりゃあできねえことはねえよ」
「死ぬ気?」ますます怪訝そうな顔をする大友。
「へー、死ぬ気?」心底愉快そうに笑う敦子。
「そうだよ、死ぬ気で頑張れば、人間できねえことなんてねえんだよ」自分にいえることはこれまでだ、と満足したように田中はうなずく。よく見てみれば、秋も深まりつつあるのに、額に汗を流している。
「死ぬ気ですか……」
「死ぬ気ねー」
「死ぬ気だよ」
三者三様の顔を浮かべる。
「それじゃあさ」神妙な面持ちの二人とは違い、敦子は鬼の首を取ったかのように笑顔を浮かべている。「総さんが、サボりまくった人類学の授業。私や友さんの助けがなくとも単位とれるよね?」
「えっ」あっけにとられる田中。
「死ぬ気でやりゃあできねえことはねえんだよ、でしょ?」
田中の首筋を通った一筋の汗は、決して達成感からくるものではなかったはずだ。
一度田中と敦子が二人で寄り添い合っているのを学内で見たことがある。長年連れ添った、まさに熟年夫婦という雰囲気を出していて、声をかけるのをためらった。
だが、今日の二人ならば気楽に声もかけられる、と大友は思った。一月も暮れにさしかかり、息を吐くと、すぐに白く染まる。一学年最後の試験も大詰めである。
そのとき、田中と敦子は、食堂の片隅で、命運を別っていた。かたや涼しげな表情でお茶を飲んでいる敦子と、この寒い中――いや、食堂内は暖房が十分に効いているが――汗を飛ばし、湯気を立たせ、教科書を凝視している田中。何がここまで二人を別ったのか、考えるまでもなく明らかだった。本日が人類学の試験なのだ。
「こんにちは、友さん」一心不乱に教科書を見やり、大友を一瞥すらしない田中の代わりに、敦子が声をかけてきた。どうも聞くところによると、敦子の方は同じクラスに「お友達」を作っていたようだ。彼女の分も配布されたプリントは確保していたが、総さんが友さんを頼らないなら私も、と言って、そちらの「お友達」を頼ったらしい。一直線なだけでなく、したたかな女性だな、と大友は思った。田中がちらっと恨めしそうな顔で敦子を眺めるのもわかる。
「どうですか、田中さん?」
「あれだけやってるんだから、きっと何とかなるでしょ」と敦子は素っ気ない。
「見ての通りだ」と胸を張る田中。少々顔色が悪いが、本当に大丈夫だろうか。
二人はぎりぎりまで粘ってから試験会場に向かうということなので、大友は早々と引けさせてもらった。目的の教室にたどり着くと、なるべく前の方に座る。試験が始まって、三十分が立てば自由退出が認められるので、早めに出てしまおうと考えたのだ。そのためには前の方が答案を出しやすい。
試験開始五分前に二人が席に座るのを確認したあとは、試験に集中していたので、大友は田中の様子を確認しなかった。三十分ジャストで仕上げた答案を提出し、退出する際に後ろの方が騒がしかったが、試験中ということもあり、気にもとめなかった。
提出する際に、敦子が立ち上がるのが見えたので、少し待つことにした。これで残すところお互いに一科目である。田中を待ちがてら、図書館で勉強にでも誘おうと大友は考えた。
少し時間が経ってから、現れた敦子は、ぽかーんとあきれたような顔をしていた。「友さん、友さん。総さん、倒れちゃった」
「えっ」
お互い顔を向かい合い、何もそこまでしなくとも、とため息をついた。
医務室にいるという連絡を、倒れた本人である田中から受けた二人は足早に向かった。敦子の反応から大事には至っていないということがわかっていたが、それにしてもわざわざ出向いた先の田中は元気であった。再試験が認められるらしく、すでに次の試験に向けて勉強を開始していた。倒れた原因は、どうやらただの寝不足らしい。ここ数日寝ずに試験勉強に励んでいたということだ。。
「どうして?」どうしてそこまで、倒れるまで本気になれるのだろうか、と大友は不思議に思った。未来に不安はないんだろうか。
「言っただろうが」何を言っているんだ、友さん、という顔で田中が笑った。「死ぬ気でやりゃあなんでもできるんだよ。人類学の授業ぐらい余裕で取れる」しわだらけの顔で、当たり前のようにそんなことを言う。
「違いますよ」田中敦子は、長年連れ添った夫のそばに寄りそう。
「夢だったんですよ」敦子がぽつんとつぶやいた。
「大学へ行くのが、私たちの夢だったんです」