いつもならぐっすりと眠れるはずなのに、今日はどうもそうはいかない――。原因は夕暮れ時に見た「紫色の夕焼け」らしい。小学生の冴子は、ただの一瞬だけ見えたあの光景をもう一度見たいと思いながら、眠れぬ夜を過ごすのだが――。
pixivで公開している自作小説「刹那」です。あっちだけだと読めない人もいるだろうと思い、こちらにも上げておきます。
◇
刹那 かもめ
冴子は暖かい空気を逃がさないようにぎゅっと布団を掴んで、寝床で丸まっていた。いつもはものの数分のうちに眠りにつくのに、今日はなんだか寝付けない。
夕暮れ時に見た、あの紫色の空が頭から離れないのだ。
水たまりに映るマンションや空を眺めて、自宅に帰る途中だった。ふと何の気なしに、見上げた空に冴子は目を奪われた。太陽が遠くの厚い雲に沈む瞬間、空は濃い紫色に染まっていた。
あっ、と思う間もなく、辺りは暗くなる。それでも、その一瞬に見た風景を冴子は忘れられなかった。もう一度見てみたい。突き抜けるような青でもなく、いつもよりずっと空が近くに感じられる灰色でもなく、そして、華やかなのになんだか物寂しい朱でもない。冴子はまたあの不思議な紫色の空を見てみたかった。
変な夢を見た。
羊に囲まれる夢である。眠れない時にはいつも羊を百まで数えていたので、冴子は羊を見ると反射的に数えてしまう。それは夢の中でも同じだったようで、一、二、三と一匹ずつ丁寧に数える。三十匹。すべての羊を数え終えたところで目が覚めた。冴子ー、と母が一階から呼ぶ声が聞こえる。いつもと変わらぬ朝だった。
おかしいな、と気づいたのは、冴子が学校に着いてからだった。重たいランドセルを机に載せると、幼なじみの美波が近づいてきた。
「さえちゃん、算数の宿題できた?」
「えっ」
算数の宿題? あれ、昨日も出されたっけ、と戸惑う。
「ほら、これだよ」と言って、美波が出してきたのは、昨日すでに答え合わせをした問題だった。
「それ、昨日やったよ」
「やってないよ。今日までだもん」美波は引かない。
しょうがないなぁ美波ちゃんは、と冴子はランドセルから算数のノートを取り出し、昨日授業で使ったページを開いた。
「あれ?」
昨日ちゃんとしたはずの答え合わせのあとがない。
「そう、これこれ! さえちゃん、ありがとう」美波は先ほどのやり取りに頓着もせず、まるで昨日と同じように冴子からノートを借りていった。
授業が始まってようやく、どうも昨日と同じことを繰り返しているらしい、と冴子は理解した。斉藤先生が話している内容が冴子にとっての「昨日」とまったく同じだった。
困ったことになったぞ、と思う前に、冴子はこの状況を面白がっていた。物語の中でしかお目にかかれないような出来事がまさか自分の身に起こるとは、考えもしなかった。そして、これならば、もう一度あの紫色の夕日が見られる。冴子はそわそわとして、ろくに授業も聞いていなかった。
授業が終わると、彼女は一目散に昨日の場所に向かった。空を見上げるが、まだいつもの青い空だ。昨日と同じように、水たまりに映る空を眺め、ちらちらと見上げる。
「あっ!」
空が紫色に染まり始めた。どうやら日が沈むほんの少しの間だけ、紫色に見えるらしい。「昨日」よりもずっと長く、その空を見ることができ、彼女は満足だった。
夢の中の羊は、二十九匹に減っていた。
「今日」もまた冴子が登校すると、美波が近づいてきた。
「さえちゃん、算数の宿題できた?」
またあの空が見られる! 冴子は飛び跳ねたい気持ちを抑え、美波にノートを貸した。
「そう、これこれ! さえちゃん、ありがとう」ノートを借りて自分の席に戻る美波を見つつも、冴子の頭にあったのは、あの紫色の空だった。
「昨日」を繰り返す度に、夢で見る羊の数は減っていった。どうやらあの羊がなくなると、「明日」になるらしい、と冴子は直感する。そう考えると、あと二十回近くもあの空を眺める機会がある。冴子は嬉しくて嬉しくて、今日も寝床で羊を数えた。
夢の中の羊の数が、一桁になったところで冴子は、この素晴らしい風景を独り占めにするのはもったいない、と考えた。今度は美波にも教えてあげよう。
「さえちゃん、算数の宿題できた?」いつものように近づいてくる美波に、
「美波ちゃん、今日の放課後大丈夫?」冴子は言った。
「うん? 放課後は大丈夫だけど、算数の授業はちょっと危ないかな」
「それじゃあ、危ない方はこれ」冴子は手慣れた手つきでノートを渡す。これで彼女にノートを貸すのも二十回を超える。
「そう、これこれ! さえちゃん、ありがとう」美波は、本当に助かりますと笑った。「放課後だね、りょーかい」
「おー、これは……なかなか」無愛想な言い方だけど、紫色の空を眺める美波の眼は真剣だった。夕日が沈むと、彼女は大きく息を吐く。
「また見たい」とぼそっとつぶやいた。
こんなにも真剣に見てくれる幼なじみの姿が嬉しく、冴子はまた彼女と一緒に見ようと思った。
それからもずっと冴子は美波と同じ空を眺めた。美波はいつも同じように「おー、これは……なかなか」とつぶやき、空から目を離そうとしない。冴子はそんな幼なじみの顔を眺め、幸せだった。
羊は最後の一匹になった。
また「今日」も同じように、美波を連れて行った。
「おー、これは……なかなか」と独りごちて、彼女は瞬き一つせず見つめている。ふと、わたしの見たかったのは真剣な幼なじみではなく、夕日の方ではなかったか、と気づいた。冴子は美波から目を離し、空を見上げた。
いつもと変わらぬ、
紫色の空が目の前に広がっていた。