「ディケイドに、物語はありません」(紅渡)
『仮面ライダー×仮面ライダー W(ダブル)&ディケイド MOVIE大戦2010』のネタバレ感想です。映画は『仮面ライダーディケイド完結編』&『仮面ライダーWビギンズナイト』からなる超大作でしたが、今回は一番感銘を受けた、というか今後影響されるであろう「仮面ライダーディケイド完結編」の感想をば。
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映画全体の感想については、ランゲージダイアリーのあいばさんの感想がやばいので、そちらをどうぞ。メタフィクションを絡め、かつゼロ年代の総評っぽい考察になってます。2010年を迎えた今、目を通しておくと今後の作品に対する理解が深まるやもしれません。
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で、僕の感想としては、ディケイドは物語をただ見るだけの視聴者から物語を作る創造者へと転換するお話だったのかなぁ、と思ってます。それが象徴的に描かれていたのは、士の写真の意味が明かされたところですね。
士はカメラ越しにしか世界を見られないということですが、それは文字通り視聴者もおんなじで。僕ら視聴者はスクリーン(ブラウン管)越しにしか世界を見られない。士と視聴者が極めて近しい存在として描かれているわけです。
そして、士は倒してきたライダーのカードを見て、せめて彼らを覚えていようとする。ここも今回映画を見て初めて気づいたんですが、このカードって多分「データ」の象徴なんじゃないかな、と思います。カードってほら、なんか必殺技とか載ってたりするじゃないですか。そういう過去の蓄積という意味での「データ」で、彼はそれ以上のことを覚えていようとする。それは僕が大好きな森博嗣さんの著作「すべてがFになる」から言葉を借りるなら、
「思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ」(犀川創平)
過去を記憶するのではなく文字通り「思い出」にすることなわけです。で、彼はそうやって今までのライダーたちを思い出にしてきたのに、誰も士のことなど見ていなかった。覚えていようとしなかった。それが、
「ディケイドに、物語はありません」(紅渡)
という言葉の意味。物語とは誰かが勝手に綴って良いものではなく、誰かが見てくれて初めて「物語」となる。なので、所詮今までのお祭り作品でしょ、あのライダーやっぱり格好良かったよなぁ、と視聴者の昔の記憶を掘り起こして、「思い出化」に成功しているだけのディケイドではダメだった。肝心のディケイドは誰も見ていなかった。写真もなかった(=誰もスクリーン越しで彼のことを見ていなかった)。
だけど、そこからが熱い。
夏海が写真はあると駆け出すところで、もうじわじわ来てたんですが、あの完全ではない写真(今までのお話からするにただの「データ」)を、夏海、海東、ユウスケと今まで一緒に旅してきた三人で「思い出」へと昇華させる辺りで大爆発。そして、彼が歩いてくるシーンで、もう。・゚・(ノД`)・゚・。
ここ、これまでのライダーのカードを通ってくるんだけど、彼らの思い出があるからこそ今の士があるという意味と、そして、各々のカードをスクリーンとすればそれをぶち破っている、その二つをかけているんだと思うんですよ。ただ見ているだけだった視聴者から、今度は物語を作る(=他者に見てもらう)創造者への転換。そのためには、スクリーンを越えて、向こう側に行かなければならない。
そして、いつもの曲が流れて、決め台詞。これからも世界を繋ぎ(紡ぎ?)、物語を紡ぐと。これからも物語を作り続けるという宣言がやば格好イイ。これまでの物語を破壊し、新たに創造する語り手の誕生ですよ!
何気に、Wの桐山漣さん(翔太郎役の人)が仮面ライダーになるのが夢だったと言っていたのが、今となっては偶然のように思えない。いつか、ライダーの脚本を書くのが夢だったという人が出てくるかもしれないですね。
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2010って書いているので元旦から見に行ったんですが、個人的に今年になって見に行けて良かったな、と思います。壁を越える準備をしよう。