アニメ『SAO』2クール目以降の展開は、本当に素晴らしかった。細かい改変を除けば全編通して展開は原作準拠であるにもかかわらず、1クール目のSAO編はどうにも乗りきれず、どうしてここまで面白くないのか不思議でならなかった。だが、2クール目、俗にいう「フェアリィ・ダンス編」を見て、理由がはっきりとわかった。

 それは一言で言えば、統一した「視点」の有無だ。

 原作小説のソードアート・オンライン第一巻は、三人称や一人称といった文章的技法の話を別にしたとしても、キリト視点で統一されている。あそこで描かれているのは、彼の見たソードアート・オンラインの世界であり、彼の想いがこもった冒険譚である。

 一方で、アニメのソードアート・オンライン編は、よくも悪くも三人称的な映像、作りになっている。その中にあって、彼が自身の胸の内を視聴者に明かしてくれることはほとんどない。そういう意味では、サチの死というような瑕疵はあれど、ただひたすらにあの世界の神であるヒースクリフを倒すという、英雄譚「らしい」映像となっている。ある意味、「英雄」という役割を押し付けられた名もなき登場人物であるかのように。

 もちろん、原作小説を精読していけば、キリトという少年の「英雄譚」(ドラゴンボールでいうところ悟空のような)が浮かび上がってくるのだけれど、そうは言っても、その中で彼は彼なりに苦悩や挫折があり喜びがある生き方をする。そう、「英雄譚」というよりは、現代に蘇った「冒険譚」のように思える。結果として、その過程で英雄となっていくだけで。

 話が逸れてしまった。

 そもそもアニメは、本来なら読者が読むタイミングが別であった短編が、時系列順に並べられるというリニアな作りになっている。この直線的な展開に、ぼくはとても三人称らしさを感じるのだけれど、結果として、それによってキリトの視点、意識、悩みが断絶しているかのような映像になってしまった。

 すでに在った物語に、欠けた部分を補っていくのと、最初から欠けた部分を補って物語が語られるのとでは、やはり別の物語体験になっていくだろう。それがアニメ1クール目(それも前半)のキリトの非直線感に繋がっている。ようは、各エピソードの時間的な間が大きすぎて、何やら何を考えているかよくわからない少年になっていく。サチが死んで絶望していた直後のエピソードで、シリカとイチャイチャしてるとか!(笑)

#話は変わるが、この「三人称」的かつ直線的なアニメながらも、それを自覚的に丁寧丁寧に、そして、何よりも淡々と描くことで、その「変化」を際立たせたのは『Darker than Black 黒の契約者』だろう。まったく胸のうちを語らない、つまり独白がない黒<ヘイ>が、胸の内を吐露する最終話は感極まるものがありますねっ!

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 逆に、原作小説と流れが重なる八話以降は、とても安心して見られる映像になっていた。ユイのエピソードがちゃんと時系列的に嵌ることもあるけれど、キリトが英雄へと駆け上がっていく物語を描く上で、それを三人称的に構成するのはきっと演出的に間違いない描写なのだろう。

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 そして、2クール目に入り、ついに我らが妹、リーファこと桐ヶ谷直葉の登場と相成るわけである。ALO編のまとめ感想なのに、ここまで長かった。

 この三人称的な物語であるアニメに、2クール目からは直葉の視点が設けられる。デスゲームから帰還し、二年ぶりの現実を生きる兄の姿を、妹の目が追っかける。結果として、それは現実だけでなく、仮想現実の世界にも及ぶ。げに恐ろしきは、妹の兄感知力である。

 原作小説のときも、直葉視点で描かれることそれ自体に意味がある構成になっていたのだけれど、アニメではよりそれが明確に、意識的に描かれている。ALO編は、一言で言えば、直葉/リーファから見た和人/キリトの物語。

 ゆえに、バイアスというものがかかる。「キリトくん(お兄ちゃん)すごい!」という妹の贔屓目である。

 それは、原作以上に無双っぷりを発揮するユージーン戦が顕著だ。2クール目の、原作とは微妙に違うケレン味のある映像となっている箇所は、ある程度リーファのバイアスがかかっているシーンと捉えると、とても彼女の物語が捉えやすくなると思う。そうしたバイアスがかかるシーンは、リーファから「遠い」場所で戦っている時というのも面白い。

 そして、そうしたバイアスが何を生むかというと、いわゆる「キリト(俺)TUEEE」という視聴者(広くそれを見る者にとって)の快感と、「遠い」という感情である。

 ここに一つの「英雄譚」と、それを見るものの物語が生まれる。それは、決して交わることのない者たちの「冒険譚」。

#ALO編はSAO編のエピローグと称されることも多いけれど、それは直葉にとってもそうだろうと思う。本編には出ることができなかったものが唯一出ることができたのが、このときだ。

 まさに「近くて、遠い」存在であるキリトとリーファが、お互いの真実に気づいたのはいつだったのか。それはキリトがSAO時代の無双っぷり、英雄っぷりを遺憾なく発揮し、敗れ、地に這っていた瞬間である(まあ宙に浮いてましたが)。リーファが、彼女にとっての「英雄」の真実に気づく瞬間は、あそこ以外にありえない。キリト自身も独白していたように、ある種の英雄、勇者としての思い上がりを自覚した、ただの少年/剣士に戻ったあの瞬間しか。

 そして、そんな彼らが和解するのは、お互いが剣を捨てた瞬間であるというのも美しい。剣士ではなく、妹と兄としての和解。

 原作小説以上に、直葉の視点というのが意識されているがゆえに、グッと来る瞬間でもある。そして、直葉の物語はクライマックスを迎える。

 原作ファンにとっては、23話ラストにおけるキリトの二刀流の扱いに不満があるようだが、直葉視点として再構成されたアニメ版にとって、あの突進にはちゃんと意味があるように思う。

 二刀流でバッタバッタと切り倒していくのではなく、なぜ突進なのか。

 それは、リーファにとってキリトが「飛翔」のモチーフとして機能しているからだろう。自身ではとても到達できない高みへと駆けていく存在。憧れてやまない憧憬の相手。リーファはこの瞬間それを見送ることしかできないことを悟った。

「行って、行って、お兄ちゃん。行け── 飛んで。どこまでも、どこまでも空を駆けて。世界の核心まで」(リーファ)

 まさに、「遠い」と自覚した瞬間だろう。

 この瞬間、天と地が逆転し、リーファからキリトへと視点がスイッチされるのが見事だ。この時、彼女から視点が剥奪されたわけだけれど、それによってリーファにとっての兄との距離感を表現している。

 彼女にとってそれはとてもたどり着けない距離に思えたのだろう。

 ゆえに、最終話に開かれるオフ会でもSAOの帰還者達とは距離を置き、ホームであるはずのアルヴヘイム・オンラインでもシステム上到達しえない空を目指す。

「遠すぎるよ、お兄ちゃんの、みんなのいるところ。わたしじゃそこまで行けないよ」(リーファ)

 だが、その届かないはずの空に浮かび上がるのは、自身がどれだけ渇望しても届かないと思った浮遊城アインクラッド。そして、隣にいるのは英雄であるはずの姿を捨てたキリト。彼らとともに多くのもの──有名無名問わず──が空の城を目指す。

 たった一人の英雄譚ではなく、多くの者による、たったひとつの冒険譚がいま始まる。

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