『ギルティクラウン』第十三話「学園:isolation」のネタバレ感想です。これはひどいですね(珍しく褒め言葉ではなく)。九話から十二話までの感想はまた後日改めて書こうと思います。
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普段はあまり批判めいたことは書きませんが、あまりにひどいと感じられたので(今年のワーストエピソードなんじゃないかと)、二点のポイントに絞って、整理してみようと思います。
簡単にまとめれば、
・これまでの綾瀬の積み上げを無にしたこと。
・ヴォイドを状況ではなく、人の葛藤を解決する手段としてしまったこと。
この二点が引っかかったエピソードでした。とりわけ綾瀬の描き方は、これまで「車椅子の少女」として「生きる」綾瀬を描いてきたのに、どうしてその彼女に自身の肉体を否定させるような展開を持ってくるのかと、素朴に疑問です。
第五話ではっきりと綾瀬のキャラを立たせた台詞に「車椅子は私の個性」というものがありますが、今回の彼女を見る限り、それは見る影もない。また第五話終盤の、シュウとのやり取りもなかなかに記憶に残っていて、ああ、凄く丁寧に自分の肉体に限界のある(限界がわかりやすいだけで、誰にでも限界はあります)少女を描いている気さえしていたのです。
その過程に、今回も台詞として出ていましたが、「人の手を借りない」という言葉があった。最初に「車椅子は私の個性」とシュウに言ったときは、シュウがある種綾瀬のことを舐めていたので至極当然の反応だったと思うんですが、終盤シュウが彼女に手を伸ばしたときは明らかにそれまでとは変わっていて、厚意から出たことだと思うんですね。
だけど、綾瀬はそれを手に取らなかった。「人の手を借りない」と、よじ登る姿はエレガントじゃないから、どこかに行ってほしいと。でも、その「人の手を借りない」というのは、他者を拒絶した一言ではなく、自分にはできないことがあるということを自覚した上で、たとえ車椅子によじ登ることがどれだけみっともなくとも、自分一人でできるから、「人の手を借りない」という箇所だったと思うんですね(逆に一人で動けないところは、ツグミに押されて移動するシーンが多く描かれてますよね)。とてもポジティブで、彼女の生き方をすっと見せつけてくれる言葉だった。
だけど、今回飛び出てきた「人の手は借りない」は、まったくの真逆。ポジティブな言葉をネガティブに堕とす物語展開。「下げて上げる」というのは、確か物語の展開を動かす上で常套手段として使われることだと思いますが、こういう描き方をされると、それまでの「積み上げ」は何だったのか? という気持ちになってしまいます。作中の登場人物も視聴者も、誰も幸せにしないような……、そんな気さえもします。
彼女が一人では何も出来ない(できないことが多い)、というのは確かでしょうが、その事実はある程度受け入れているかのように描かれていると思うんですね。だからこそ、そこから悩み出すのか、と。ある程度彼女が答えを出したと思われるところからではなく、振り出しに戻っている感があったので、それまでの「積み上げ」を無にしているような、そんな気持ちになりました。
#個人的には、彼女のようなキャラだと、何も出来ないということがはっきりとわかって、だからこそ悔しい(自分にはあの時ガイを助ける力がなく、無力だったということが誰よりも明らかにわかっていて、悔しい)という葛藤の方がしっくり来る気が。それを、まわりが今回描かれたような悩みを持っているのではないか? と右往左往させて、「接続を切らないで」で誤解が判明するような。
そして、今回はその綾瀬の葛藤を解決する手段として、ヴォイドを使ってしまったのは、どうなんだろうと。これまでも確かに、凄まじい勢いでご都合主義のアイテムとして存在していたヴォイドですが、取り出された本人は気を失うということもあり、「状況」を打破するものとしては使われていても、その人の心の問題を解決する手段としては使われてこなかった。
だけど、今回はそうした形で使われた。一人では歩けない、何も出来ないという彼女の悩みを、あっさりと解決してしまうご都合主義のアイテムとして。
これがもし、彼女が一人で歩けない、自分一人ではできないことがあまりにも多いという彼女ならではの問題を、自分なりにふっきったあとに、一人ではできないからこそシュウに助けを求めるという展開なら、ものすごくよかったと思うんですね。だけど、その前にシュウに助けを求めてしまった。
誰かに手を借りるって、誰かを助けるって、こういうことなんだろうか? 誰かの悩みを代わりに解決してしまうことなんだろうか? 本当の手助けとは、その人がその人だけでなんとか生きていける助けになることなんじゃないかと。確かに歩けない彼女に、自由に歩ける足を与えるというのは、ある意味で解決になっている。だけど、それはそもそも論として、彼女が抱えていた悩みを土台から吹っ飛ばしているのと変わらないのではないか(彼女の悩みとか苦しみをなかったかのようにしている気がする)。それは問題解決ではなく、問題破壊。今回のエピソードは「人の手を借りない」綾瀬が、「人の手を借りられる」までを切り取ったものだと思いますが、これは「依存」してしまっただけなんじゃないかと思えてならないんですが。
そして何より、結局彼女の「個性」を、彼女が改めて肯定することもなく、物語を閉じてしまったのがやっぱり残念。心の問題を心だけで解決してしまった印象すらあって、でも心と身体を分けて考えることってできないと思うんだけどなぁ。

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→前回第07話「輪舞:temptation」第08話「夏日:courtship behavior」の感想へ
→次回第14話「攪乱:election」の感想へ
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コメント
なんだか、設定もコロコロ変わって、ほんとなんだかなぁ、と。
>名有りさん
どうもコメントありがとうございます。
>なんとも的確な指摘だと思います。
>なんだか、設定もコロコロ変わって、ほんとなんだかなぁ、と。
実は今回の欠点が意味を持ってくる展開もあることがわかっていたのですが、どうやら関東圏の感想などを見ている限り、そうした展開になるっぽいです。
ある種の「奴隷」を作りだしてしまう展開ならば、彼らが抱えている問題はむしろよりインスタントに劇的に解決しなければいけないので、納得出来るんですよね。それが好みかどうかは別ですけれど。