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これもまた「境界線上の物語」と最近呼び始めた物語構造になっている作品だと思います。ちょっとフライングで予測するなら、タイトルの『あやかしびと』という言葉にすべてが込められている(作中で妖の力を持つ人間は「人妖」と呼ばれるのに、タイトルが「妖人」なのには意味があると思われる)。人でもあり妖でもある(あるいは人でもなく妖でもない)という、まさに境界線上にいるものとしての名が「あやかしびと」なんだろうな、と。
前半部分から、神沢市の内と外を分ける壁が象徴的に描いたり、双七がすずに決して殺人という一線を越えさせない(双七は誰かを殺すなら自分、つまり一線を越えるのは自分だと考えている)辺りからも、「境界」という言葉が彷彿してきました。そして、丁寧に丁寧に日常シーンを描くことで、非日常へと踏み込んでしまった一瞬がものすごく切ないものになってしまってました。
言ってみれば、刀子さんのルートは双七が「一線を越えてしまった」物語なんですよね。逢難に取り憑かれた際に、人を殺してしまった。それまで人妖能力が発言した際に変質者を殺しかけたことはあったものの殺さず、境界線上にいた彼がその一線を飛び越えてしまった。
そして、最終的には「人」として、名もなき「妖」を討ったことで、人間として生きることを決意した。ラストで逢難を「宇宙に送る」という形で封印するのは、それが人間の進歩の証(双七のこれからを明るく照らそうとしている)だからなんじゃないかなぁ、と(八咫烏もここで、少年=人間の浪漫みたいな台詞を挟みますしね)。
#九鬼耀鋼先生が、妖の力を失って、「人」として加勢してくれる辺りも、この流れを汲んでのことだと思います。「魂振り」自体も、まあ人が神を降ろす儀式。
妖と人の狭間、人妖という生き方をしていた双七が、人間として生きることを選んだ。つまりは、「境界性」を失ったわけですね。
だからこそ、同じく男と女という二心同体(これもまた一つの境界線)である一乃谷兄妹のどちらかしか助けられない物語にもなっているのだろうな、と。逢難の宇宙送りが描かれない方のエンディングでは、双七と刀子さんの子どもとして愁厳が転生しているかのように描かれているのは、後の「人も妖もどちらも取る」物語へ薄い道を残している感じですかね。
そして、バッドエンドは、一線を飛び越えながらも、死ぬ直前まで思い切れなかった(最期にようやく結界という境界を越えることができた)双七が描かれていて、本当に「境界線」を徹底して描いているなぁ、という印象です。これはもうなんとしてでも、境界線を掴み取る物語が楽しみすぎるなぁ。

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