『テイルズオブエクシリア』のネタバレ感想/プレイ日記です。ミラ編クリア。最終的な感想は、十五周年記念作品らしく「問題作」だったな、というもの。ただこのシナリオが抱える問題は、テイルズに限らず、ほとんどのRPGに言えるものですが。
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以下全体を通しての見所ベスト7。
■第7位:俺じゃねえ!
この台詞、アビスのルークを思い出しますが、あの時よりもずっと実感のこもった悲痛な叫びとして聞こえました。最終的に最も作中で心動かされたシーンは、このシーンだったりします。
「黒匣」(ジン)によりマナが枯渇し、滅び行くエレンピオスを、何とか立て直そうと「異界炉計画」を推進していたジランド。確かにその燃料となるのがリーゼ・マクシアの精霊や人間ということを考えれば、その計画は問題アリですが、それでも二〇〇〇年以上前の先祖が先送りした問題を何とか解決しようと必死だった。それを黒匣を使っていた、おまえの自業自得といわれれば、そりゃあ、違う! と叫んでしまうよなぁ。
要所要所で「責任」という問題が描かれていたし、主要なテーマとして描こうとしていた感があったので、この点はもう少し掘り下げてほしかったかなぁ。どこまでが自分の責任として負うべきことなのか、自分の行いの結果としての責任でなくても、人は責を負うべきなのか。
これ、たぶんミラの対比としてジランドが存在するんだろうけど。望んだわけでもないのに、マクスウェルとして生きることになった彼女が、最終的にマクスウェルとして生きるという責任を負うことになった。結末としては鮮やかに対比されているけれど、その間の過程がもう少しほしかったな。
■第6位;サブイベントの充実
これまでのシリーズを見るならば、サブイベントはサブキャラの掘り下げとして存在していた感があったんだけど、今回は主要キャラの掘り下げがメインだった。このサブイベントを見ていないと、本編でそのキャラが何を思って、そういう行動を取ったのかわからないほど、充実している。このサブイベントをちゃんと追っても、そこまでプレイ時間が嵩まないので、見るべし。
■第5位:ミラはマクスウェルじゃなかった!
実はほんもののマクスウェルは、冒頭でナレーションをしているじいさん。「マクスウェルは全てを守る存在になりうる」とかを、自分で言っていたかと思うと、ちょっと笑えてくるな。アルクノアから逃れるために、ミラを隠れ蓑としていた人なんだけど、この人もまた「人間に振り回されるのはこりごりだ」という台詞とか、真に迫るものがある。
四大精霊の力を失ったら、途端に普通の人間のようになるというのは、上手い伏線だった。実際ぼくも少しは疑っていたのだけど、記憶を失った状態でミュゼに真相を聞かされるまでははっきりと気づかなかった。中身は人間だったということを考えると、ガンダラ要塞で自爆覚悟の特攻を貫くなどは、彼女の揺るがぬ意志の強さがよりわかるというもの。その意志が妥当かどうかは不問とする。
■第4位:秘奥義乱舞
最後、ミュゼとガイアス(二人がラスボスでした)に、ジュードとミラ二人で挑むことになるんだけど、途中秘奥義で乱入してくる仲間たちという展開がなにか熱いものがあった。というか、問答無用で燃えていた。全部秘奥義初見だったし。
ラストダンジョンが簡易なところも、毎度毎度長すぎて、息切れしていたので、よかった。パーティがバラバラになり、誰がいちばんに辿り着くのかと、なだれ込むような形で最後の戦いに突入していくというのもイイ。
■第3位:ジュード、ミラのif
ラスボスのミュゼとガイアスは、出会った頃のミラとジュードの関係を模しているのだと思う。誰かに必要とされたいミュゼと、人々を守るために黒匣(ジン)を破壊するガイアス(彼が結局どのような方法で黒匣を破壊しようとしたのか気になる。まさか歩いて全て破壊しようというのか。ガイアスならあり得るから困る)。驚くほどに、最初のジュードとミラに似通っている。
ちなみに、ジュードはガイアスやミラのように自身で自分の道を選ぼうという成長を遂げており、この二つの世界を救うにはオリジンという可能性があると、自分が必要とされるのでなく、世界に必要なものを突きつけるに至っている。ミラはいつの間にか黒匣を守る立場になっていた。
ミュゼのように「弱い者」(ゆえに、最初ミラに守られていた)であったジュードが、「強い者」に憧れ、そこまで成長できた(それは当然ガイアスも知っている)。その現実をもって、いま「弱い者」であっても(たとえ今すぐ強く在れなくても)いつかそうなりうる可能性があるのだと、「僕(のような人)を信じて」(もう少し待ってほしい)と言えるジュードがカッコイイ。ミラもミラで、意志を貫くといっても、マクスウェルになるという選択に、迷いがある。それはガイアスの言っていた弱き者の特徴でもあるんだけど、その上でその選択をしようとしている。
ただ僕は、ジュードがミュゼに、ミラがガイアスに、それぞれ手を伸ばした方がしっくり来るけどね。強さを知った弱き者同士、弱さを知った強き者同士が手を結ぶ方が良いな、と。
■第2位:相対主義の正義と二元論の正義
ヴェスペリアではストレートに乱立する正義について描き、今作も「揺るぎなき信念のRPG」と称される辺り、人それぞれの信念(正義)を描こうとしていた感があるんですが、この「正義」という言葉はどう捉えてるのか重要な気がします。
ぼくは便宜的に「相対主義の正義」と「二元論の正義」と呼んでますが、前者がいわゆる「正義の逆はまた別の正義」、後者が「正義の逆は悪」の正義。相対主義は究極的には「私はこれが好き、あなたはそれが好き、それってお互い素敵ね」と他人なんて関係ないという自己肯定になりうる論理。基本的にはこっちだと他者と対立しないんですよね。二元論の方は、究極的に自分たち以外はすべて敵とするので、排除しようと他者と対立する(だから、国を動かそうとするときなんかは、この発想が使われます。アメリカとか上手いですよね)。
RPGでどちらかが使いやすいかと言えば、当然二元論ですよね。こちらの正義とあちらの正義がバッティングするからこそ、戦わなければならない。でも、エクシリアは戦った直後に和解できることからもわかるように、相対主義的な正義なんですよ。相手を排除しなくても、なんとかなってしまう。だから、なんとなくガイアスと争わなくとも、話せばわかるんじゃないかと思えてしまう(今回は特に国同士の対立ではなく、ガイアスとミラ、ほぼ個人同士の対立でしたし、なおさらです)。
便宜的に二つに分けましたけど、正義って、ほんとうにそういうものなのか? と僕は思ってるんですよね。相手を否定すらしない正義などあり得るのかと。二元論は二元論で問題はあるんですが、相対主義は相対主義でどこかよそよそしいような印象を受けるんですよね。
最初の感想で、「君は君でやるべきことをやれ」という言葉から、ミラとジュードがぶつかることを期待していたのは、「君は君でやるべきことをやれ」(私も私で勝手にやるから)といった、あなたなんて関係ないという拒絶のようなものを感じ取ってしまったからで。二元論的にぶつかり合うことで、どこか向かい合っている、ちゃんと相手のことを見ていることを確認したかったのかも。割とアルヴィンに対して、そこまで悪く思えないのは、二元論的に裏切りつつも、敵であるミラたちに情が湧いて、フラフラしているのが良かったんだろうなぁ。
■第1位:物語が始まる物語
「未来が始まる物語」と置き換えても良いですが、いつものように、これから物語が始まろうとするところで終わるのがテイルズです。ただ今回は特に「責任を果たす」「責任を取る」みたいなものがテーマの根っことしてあったので、バッティングしてしまっているなぁ、という印象があります。
テイルズの得意な物語として考えると、責任を果たす「覚悟」をする、責任を取る「決意」をするというところに焦点が当てられているので、どうしても今回のようなテーマだとしっくり来ないんですよね。その前段階で終わってしまっているから。どことなく、ミラたちの掲示する未来が腑に落ちないのも、それが原因だと思います。行動の前の考え、可能性に終わっているから。その一方で、これまでのシリーズを見ても、敵側は現実を見据えて「行動」を起こしているのが多いですね。
この原因は、テイルズに限らず(特にテイルズが顕著ではありますが)、ほとんどのRPGが中世から近代の「人間が自由意志を獲得する」ところがモデルになっているからだと、思います。自由意志とは難しいので、もう少しわかりやすく言うなら、「今日よりも明日がより良くなる」可能性を掴むことが目的だから。頑張れば、農民ではなく、商人になれるかもしれない。頑張れば、武士ではなく、役人になれるかもしれない。そんな「いまよりも未来が明るくなっている」世界を掴み取るのが、これまでの主人公たちだった。
だけど、僕たちが「現実」に生きているのは、どちらかというそうした世界ではなく、ジランドやガイアスの見ていた「衰退していく世界」なんですよね。物語と現実をごっちゃにするな、と言われるかもしれませんが、僕たちが「いま、ここ」に生きている限り(現実と完全に乖離していない限り)、どこが琴線に触れるかというのは、多少なりとも現実と相関性があるんじゃないかと。だから、ジランドやガイアスの動きにグッと来てしまうんだろうなぁ。ほんとうに未来を掴もうとしているのは彼らのように思えてしまうから。
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ただまあ、この辺りの問題は日本のRPGだったら、ほとんどに当てはまるんじゃないかな、と。わざとじゃないかと思えるほど、的確に問題を捉えているという印象すらあったぐらいですし。
今回エクシリアをプレイしたことで、改めて『まおゆう』の凄さを実感したよ。先に挙げた「責任を取るとは?」「世界をほんとうに救うには何をすべきか?」「二元論で対立し合うものがどう和解するのか?」「未来を掴むとは?」とかを、余すことなくおもしろおかしく描いていたんだなぁ。「RPGのエンディング後を描いた物語」というのは、伊達じゃない。ぼくと同じところが引っかかっていたという人は、『まおゆう』を読んでみたらしっくり来ると思いますよ。
まさに、テイルズのような物語が終わった直後から始まる物語。勇者が獲得すべきだった明るい未来はまやかしだと解体され、その上で勇者と魔王が協力して、衰退していく世界をほんとうに救うために動き出します。エクシリアも続編でそんな物語をやるんじゃない? ってほどに、描かれている問題はおんなじですよ。個人的には、エクシリアとセットでおすすめしたい。
→特典付き再版されてるっぽい?
テイルズ オブ エクシリア (初回特典:「15th Anniversaryプロダクトコード」&「PS3カスタムテーマ(全10種)プロダクトコード」同梱)
まおゆう魔王勇者 1「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」
→漫画版もあります
まおゆう魔王勇者 「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」 (1) (角川コミックスエース)
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コメント
素晴らしい分析を読ませていただきました。ありがとうございます。
ふと、思ったのですが
ガイアスはシェルを残してどうやってエレンピオスを救うつもりだったのだろう、と。
もし彼が、エレンピオスは見捨てる。リーゼマクシアだけでも確実に助けるという立場だったなら彼はジランドと同じ魔王側の人間です。
でも彼はエレンピオスも救うと言い、シェルは残し、ジンは破壊するという立場。
実はガイアスもジュードと同じく勇者の立場なんだと思います。二人とも皆を救いたくてチョット具体性に欠けている。
何を犠牲にしようとも自分の世界を救おうと『俺(達)じゃねえ』と叫んだジランドがエクシリア唯一の魔王だった気がします。
最も、フィクションを遊ぶゲームプレイヤーの立場としてはジュードはガイアスの理想を応援したいのですけどね。
>村人Aさん
>素晴らしい分析を読ませていただきました。ありがとうございます。
初めまして。コメント、ありがとうございます。返信が遅くなって申し訳ありませんね。
>ふと、思ったのですが
>ガイアスはシェルを残してどうやってエレンピオスを救うつもりだったのだろう、と。
>もし彼が、エレンピオスは見捨てる。リーゼマクシアだけでも確実に助けるという立場だったなら彼はジランドと同じ魔王側の人間です。
>でも彼はエレンピオスも救うと言い、シェルは残し、ジンは破壊するという立場。
いま、村人Aさんが仰るまで、ガイアスはエレンピオスのジン破壊後、シェルを解放するのだと思っておりました(苦笑)。シェルは保ち続けるという立場なんですね。それなら、具体的な策を、彼は持っていなかったように思いますが、推測するに、自国に行っていた政策(弱き者に道を示す)をそのまま続けるだけなんじゃないかと思います。
続きます。
続きです。
>実はガイアスもジュードと同じく勇者の立場なんだと思います。二人とも皆を救いたくてチョット具体性に欠けている。
>何を犠牲にしようとも自分の世界を救おうと『俺(達)じゃねえ』と叫んだジランドがエクシリア唯一の魔王だった気がします。
感想にも書きましたが、ガイアスはミラのif(というか、初期のミラ)という立ち位置だと思っているのですが、そういう意味では村人Aさんの仰るように「勇者」だと思います。先の話題で、ガイアスにエレンピオス側を救う手立てがないという瑕疵は、言ってみれば、人と精霊を守るためにジンを破壊するという前半のミラに見られる違和感に通じている部分かなぁ、と。
ちなみに、話題にあげている『まおゆう』の魔王は、ジランドのような魔王ではなく、まだ見ぬ明日を求める経済学者だったりします。ジランドは、「大魔王」という立ち位置の方が近いかもです。
>最も、フィクションを遊ぶゲームプレイヤーの立場としてはジュードはガイアスの理想を応援したいのですけどね。
今回はかなりガイアスを魅力的に描いた(まっとうな勇者として描いた)こともあって、そこまでして彼を否定する必要はあるのか? と疑問に思うプレイヤーも少なくないかもしれませんね。ガイアスと対面した際に、ミラに同調してしまったジュードだったので、もう少しガイアスとミラの信念の狭間で迷って、迷ったからこそ選べる「彼らでは選べなかった選択肢」(第三の道)を突きつけるという展開が、ぼくは見たかったです。