「私」は1冊の本を取り戻さなければならない。私の「幸運」のためにも。

 pixivで公開していたものですが、こちらに載せても良いかな、と再掲載。


 ほこりを恐れて何が悪い!   かもめ

§ 1

 なにゆえ長年古本屋巡りを趣味としているのか、と問われれば、こう答えねばなるまい。それは一冊の本を、ひとえに私の「運」を取り戻すためであった。
 話は数十年前に遡る。
 当時私は大学生活を順風満帆に謳歌し、前途ある有望な若者であった。一年半もかけて、ちまちまと外堀を埋めていった甲斐あって、私は意中の麻生さんと逢い引きをするに至った。しかし、そこではたと私は気づいてしまった。
 軍資金が圧倒的に足りぬと。あまりに長い間愛用していたのが祟り、よぼよぼになってしまった財布の中を覗いてみると、初代内閣総理大臣と挨拶するばかりである。これではいけないと、私は一念発起し、部屋にあるありとあらゆるもの――書籍、教科書、衣服、食材、そして、家財道具に至る何もかも――を売りさばいた。家主以外には何も残っていない、がらんとした四畳半一間に達成感すら感じたものだ。努力の甲斐あって、麻生さんとの逢い引きは終始和やかに進み、また次の約束を取り付けて、お互い笑顔で別れた。どうひいき目に見ても、大成功であったろう。
 しかし、そこから私の人生は急転直下の一途を辿ることになる。手始めに風邪を引いたかと思えば、肺炎をこじらせ、単位を見事に落とし、留年という屈辱を味わい、終いには麻生さんに見向きもされなくなった。
 順風満帆に人生を謳歌するはずだった私に一体何が起きたのだろう?
 考えられるのは一つしかない。古きは我が幼少時代より、新しきはほんの数日前より、共に歩んできた同志達を切り捨てたことにあるのではないか。生来ものを大事にする心優しい男であったため、なかなかものを捨てることができず、後生大事に過ごしてきた。そんな私が一時の気の迷いで彼らを見捨ててしまったのだ。
 思えば、私の幸福なる日常を支えてくれたのは彼らであった。それは彼らを切り捨て、ことごとく幸運から見放された現在の私を見れば、明らかだろう。ゆえに毅然として私は言い放たなければなるまい。
 私の運を返せよ、と。

 それからの私の行動は早かった。
我が幸運を取り戻すべく、昼夜問わず働いた。次第に彩りを取り戻す我が根城に満足せず、私は精進し続けた。不遜なまでに力強く生きている間に、いつの間にやら大学を卒業し、就職し、妻もでき、子も生まれ、子が孫を生み、退職するに至ったが、それでもすべての運を取り戻すことはできなかった。
 ただ一冊の本。私が幼少時代より愛読し、あのときも見捨てることを最後までためらった、私の可愛い可愛い一冊の絵本だけはついぞ取り戻すことができなかったのである。

§ 2

 その日もいつもと変わらず古本屋を巡っていた。いつもと違うことといえば、孫が後ろからてくてくと付いてくることであろう。何に興味を惹かれるのか、私が会いに行くと必ず私のあとを付けてくるのである。
 ことごとく目的を果たせずにいる、無様な男の後ろ姿の何が面白いのであろうか。私はしょんぼりとする後ろ姿を想像しつつ、昨夜息子夫婦に聞いた不思議な古本屋のことを思い出していた。
 ここからまだ少しあるが、今日中に回れそうだ。そこを覗いて、今日は終いにしよう。私は昨日描いてもらった地図を頭に思い浮かべながら、歩を進めた。孫が歩く度に、ぷーぷーと音がするので、後ろを振り向く必要はない。

 息子夫婦が何を称して不思議と表現したのか、わからぬが、確かに不思議な古本屋であった。その店構えや醸し出す雰囲気に、私はどうも見覚えがある。有り体に言えば、昔あの本を売った店とそっくりであったのだ。それぐらいならば、まあなんとでも言えるのだが、店の奥から現れた店主もその時と同じ風貌とあっては心中穏やかではない。
平素より冷静沈着かつ深謀遠慮に思索に耽る私も、このときばかりは動揺を隠しきれなかった。
 あのときの店主の息子か何かだろうかそれにしてはあまりにそっくりだ、と思考放棄していると、あろうことか、その店主は、
「ああ、お久しぶりですねぇ」
 と親しげに挨拶してくる。一度しか会っていないのに何とも親しげだ、と普通なら答えただろう。だが、訳がわからない。まじまじと店主の顔を見つめる私に何の説明もないまま、彼は一度奥に引っ込み、一冊の本を片手に戻ってきた。
「お探しの品はこちらですか」
 それこそ長年探し求めていた我が愛しい子に相違ない。その表紙の傷、帯のよれ具合、茶色いシミの位置、正真正銘私があのとき無念のままに見捨てることになった、あの絵本である。しかし、どうして?
「あまりに往生際の悪い顔をなさっていたので、取っておいたのですよ。いつか返せるかと思いまして」
 店主は朗らかに答える。ここにいたって、この店主があのとき私と相対したあの男だという事実に疑いようがない。疑いたいが疑ってはきりがないのでやめておく。
 しかし、それならばどうしてあのとき返してくれなかったのか。あのあと店に行ってももぬけの殻であった。
「私にも色々と事情があるのですよ。この姿、おかしいでしょう?」
 店主はくるっと一回転してみせる。三十を超えたような男がひらりと舞う様を見ても、何ら感慨を覚えない。
「しかし、本当に返せて良かった。もうそろそろダメかなぁ、と思っていたところなのですよ。あまりに時が経ちすぎましたからね」
 遠い目をする店主に倣い、私もまたこれまでの日々を追想する。我が幸運を取り戻すべく奮闘し、前を見続けた日々。それも今日で終わり、私の幸福なる日々はここから始まる。
「どうしたのですか、そんなにやけ顔をして。そんなに嬉しかったのですか」
 私のあまりに晴れ晴れとした顔に恐れをなしたのか、店主はおずおずと尋ねてくる。私はこれまでに至る経緯と、これから訪れる幸福なる日々への思いの丈を熱く語った。
「何をおっしゃいますか、阿呆ですなぁ」
 心底呆れかえった顔で店主は私の足下をちらりと見る。私も振り返って、その視線を辿ると、孫が首をかしげていた。
「おじいちゃん、その絵本なあに?」
 じんわりと視界が滲む。孫の顔が見えない。
「おじいちゃん?」
 断じて違う。これは涙などではない。ただ目に埃が入っただけである。そう、この古本屋、相当埃っぽいのだ。